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『ムナーリについて(Su Munari)』という、様々な分野でムナーリと関わった人たちの証言をまとめた本の中に、先日物故したフリジェリオによるムナーリの思い出も紹介されていました。
「レッスンは続く…」
コカ・フリジェリオ
ブルーノ・ムナーリとの出会いは1970年代の初頭だった。私たちは1949年にさかのぼる読めない本の話をしたが、それは遊びがとても鮮やかでそこにはない対話の一部になっており、その視覚的あるいは触覚的なストーリーテリングが重要なものだ。
1945年の最初のモンダドーリ社の遊べる絵本にもイメージの発見に以下の文が添えられている。「トック・トック、誰かが来たよ、扉を開けて」と語りかけるように、小さな扉の向こうに驚きが隠されている。ムナーリは5歳の息子を楽しませるために絵を描いて読み聞かせたのがこの物語(絵本)の始まりだといった。
1997年トリエステのミラマーレ・スクールで開催された大規模な展覧会の際には透明なページの習作を見た小学生たちがこう言った:「ああ、わかったよ、なんて素敵なんだろう、私たちにもできるかも」。
その連続的(シーケンシャル)なイメージとしての「読めない本」というコンセプトは、1978年ミラノのスフォルツェスコ城で行われた初期の実験ワークショップから既に存在していた。その頃ムナーリはほとんど毎日グラフィックの素材選びに立ち会い、だいたい月に1、2回「おもしろい偽物」のバリエーションについてアイデアをまとめた冊子を作って置いていった。
1970年代後半から1980年代前半にかけて彼は語られる絵-本というコンセプトを展開した:この時には「イメージから物語へ」と題したワークショップが数多く開催された。それらは風景や城、雲などを型抜きしたページで、裏表紙にはポケットになったページがあり、本のページの中で動かせるキャラクターをしまっておくことができる本だった。
写真やコピーから作られた「読めない本」シリーズは、初めは初期のカラー複製技術の宣伝のために行われた「複写機との旅行」というワークショップに遡る。
そこから「挨拶とキスを」のような写真を切り貼りして再構成した楽しい小さな本が生まれたことは間違いない。それは現実から飛び出す練習なのだ。そのルールとは:逆さから読んだ文字、鏡のように繰り返されるモンタージュ、水平や垂直のストライプの挿入、いつも、無限のバリエーションがある。実際ムナーリが後から書き加えた添え書きは実質的に余計なものであり、イメージの驚きに加えられた楽しみだった。透明なシートが重なり合って展開する象徴的な絵本『たくさんのひとびと(Tanta gente)』(ダネーゼ社刊)のように彼の絵本はそのどれもが常に思考の展開を示唆していた。
わずかな要素が十通り、あるいは百通りの読み方の出来る物語を語るのだ、ご存じだろうか?緑の草むらがあり、そして小さなアリがいて、それから階段と、木がある...あるいは小さな橋があり、傘がある…というように。すべてのイメージは物語のつながりを持つことができる。透明なページはそこにある限り付け足したり減らしたりして、足りなくなったら他のものを補い、自分で作ることが出来る。
このように、以来ブルーノの偉大なメッセージは続いている。
私もまた、近くから遠くを見ることを、しるし(筆致)から始まる視覚的シーケンスを構築することを、(絵の具の)染みに縁取りすることで何かが生まれることを、最初に人物を次に物語を、視覚情報を多元化するために絵画の次元に理論的に入り込み技法を分離し一つずつ説明することなどを学んだ。すべての芸術家の本についてそのように語ることは出来ないだろうが、しかしブルーノ・ムナーリの本は並外れてシンプルな言葉と、デザイナーでありコミュニケーションの専門家としての自覚、そして人間関係への純粋な関心によって語り継がれるだろう。ある日、旅の彫刻(ムナーリの作品)を見ながら、私にはとどのつまりこのシンメトリーな作品が3次元の仮面か本のページのように見える、と彼に言った。